このブログを書いていると「みつきって誰?」「なんか謎そう」と思われがちです。
実際、会ったこともないブロガーに急に親近感を抱く人はいないでしょう。
ですが今回、私の半生を記事に残すことで少しでも私のことを知ってもらいたいと思いました。
また、同じような境遇にいる誰かのためにもなると思って書いてみます。
思った以上に壮絶で痛ましい描写ばかりです。
刺激的な文章が苦手な方はブラウザバックをおすすめします。
*記憶が定かではない部分も多々ありますが、すべて実話です
Contents
- 1 常にヒステリックだった母親
- 2 中学受験で偏差値70超えの中高一貫に入学したけど…
- 3 ある宗教との出会い
- 4 スタバで聞いた説法
- 5 一切衆生必堕無間
- 6 疲れのあまり活動についていけなくなった
- 7 何気なく見た脱会者の本が人生を変える
- 8 無間地獄の幻影にうなされ続けた日々
- 9 カフェインOD 1回目
- 10 ある女子高生との出会い
- 11 図書館に通って本を読みまくる日々
- 12 脱会後に初めて見た、夜空にきらめく無数の星々
- 13 カフェインOD 2回目
- 14 閉鎖病棟で過ごした12日間
- 15 写真の魅力にハマる
- 16 乗鞍岳で再会したきらめく夜空
- 17 進路が定まらないまま大学受験
- 18 生死の境に触れた日
- 19 大学に行けなくなった
- 20 繰り返す入退院
- 21 歌舞伎町をふらついて地下鉄の改札で倒れる
- 22 浄土真宗の本質に気づく
- 23 天体写真が心の拠り所になった
- 24 クレカ使い込み事件
- 25 兄と野辺山遠征
- 26 6月も1人で野辺山に行った
- 27 そして現在…
- 28 最後に
常にヒステリックだった母親
小学生の時、家庭は荒れていた。
母親は常にヒステリックだった。
兄と私の2人だったが、反抗的だった私ばかりがいじめられていた。
あるとき、私がイライラしてトイレにティッシュを詰めるという嫌がらせをした。
母親はそれにカチンときて、私の冷凍食品のチャーハンの上にその濡れたティッシュを被せた。
私の昼ごはんは無しになった。
夜ご飯はたまにあるが、基本は無しだった。
あるとき、私は母親に馬乗りされてひたすら拳で殴られていた。
どうしてそうなったのかは覚えていない。
兄は部屋の隅にうずくまり、涙を流していた。
たまに母方の祖父母が家にやってきて、個室で私に2時間以上説教した。
「誤解って知ってる?」とかなんとか言っていたがよく覚えていない。
それで算数の宿題ができず、説教が終わってから一人で泣きながら計算ドリルをやった。
父の帰りは遅かった。
夫婦の関係は最悪で、父が帰ってこない日もあった。
あるとき、私は母親にいじめられてキッチンの部屋の床で暴れながら一晩中泣き続けた。
父は帰ってこなかった。
そして両親の離婚が決まった。
母親はヒステリックになり、椅子を投げてふすまに穴を空けた。
家の中の食器は粉々に割れ、ビール缶が撒き散らされていた。
親権は母親のほうに渡されることになった。
小学5年生のとき、事件が起きた。
兄がハサミを振り回して母親が警察を呼んだ。
事情を知っていた児童相談所の職員のおかげで、私と兄は父と(父方の)祖母の家に引き取られることになった。
そして母親は親権を手放した。
親権は父のほうに渡った。
それ以降母親とは会っていない。
そこから父と祖母と兄と私の4人で暮らしてきた。
中学受験で偏差値70超えの中高一貫に入学したけど…
私は中学受験をした。
受験日の2月3日、合格発表の2月10日は未だに覚えている。
お世話になった塾の先生に車の中から合格報告をした。
そして入学式の日を迎えた。
中高一貫校なので高校生の入学式と合同で行われた。
「これで自分も何かが得られるはず」
初めはみんな緊張していたものの、4月末に行われた宿泊体験学習でみんなの距離が一気に縮まった。
その学校は男女比が1:1(今は違う)で、性別の枠も超えてみんなが仲良く話していた。
私も不満はなかった。
ただ、通学が大変だった。
バスと地下鉄、JR2路線を乗り継いで家から学校までは片道1時間半かかっていた。
宿題も多い。
部活をしていると家に着くのは20時ごろ。
ご飯を食べお風呂に入り、そこから宿題をしないといけなかった。
そして6時起床。
体力がなかった私にとってはかなりきつかった。
私は小学5年生のときにリーマン予想に出会い、そこから「少しでも頭の良い学校を」ということで中学受験をした。
しかし、公立学校なので私立のような先取り学習はない。
やはり「みんな同じ」という教育は変わらなかった。
私はすでに教室の中でも浮き始めていた。
「えー、リーマン予想?よくわかんないけどすごいね!」
「でも体育は苦手でしょ?みんなと合わせなきゃ」
そう言われた。
教師の熱意は高く、課外活動は多くて設備は整っていた。
でも公立学校だったのでカリキュラムは画一的だった。
数学の授業は私がとうに理解しているものをなぞるだけだった。
反対に、やりたくもない体育や美術、音楽の授業は苦痛でしかなかった。
そして次第に私は「なんのために学校に行っているんだろう」と考え始めるようになった。
ある宗教との出会い
少しずつ精神が摩耗していった私は、ネット検索で「生きる意味」と検索した。
そこである宗教のウェブサイトにたどり着いた。
名前はここでは伏せるが、S会という名前の団体だった。
S会では「人生の目的は絶対の幸福になること」と明確に話されていて、当時の私は深く感銘を受けた。
「人生の意味」に本気で悩み、虚しさを感じていた私にとって、それは暗闇に差し込む一条の光のようなものだった。
ただ、ネットコースの参加条件に「クレジットカードでのお布施」があった。
私は困って「中学生でクレジットカードを持ってないです。現金書留で現金を送るのでなんとかしてもらえませんか?」とメールした。
すると、その講師の人が「まさか中学生が法を求めに来るなんて。最初は半信半疑だったけどあなたの求道心が本物だと気づきました」と言ってくれた。
そして半年間のネットコースが終わったあと、その講師の方が特別に週1回、45分Zoomで私の質問に答えてくれるようになった。
学校に居場所を失い始めていた私にとって、その講師と話す45分が生きる意味になっていた。
「私は学校に居場所がないんです。数学が得意で、他の科目はあまりできません。周りの子たちとの差が激しすぎてつらいです」と相談した。
そのときその講師は「周りに無理に合わせなくていい。あなたはもう本当の生きる意味を知った。勉強も大事だけど、生きる意味を求めるのはもっと大事だ。これからは迷わなくていい」と言ってくれた。
私はとてつもなく救われた気がした。
スタバで聞いた説法
授業が終わった。
「まずい、Zoom説法の時間だ」
私は参考書の束をリュックの中にぐしゃぐしゃにぶち込んだ。
そして同級生たちがだらだら喋っている中、私は白い階段を駆け降りた。
4階からだった。
1階は遠い。
「まずい、時間が」
法話に遅刻することは偸盗(ちゅうとう)の罪。
地獄に行かなくてはいけない。
「まずいまずい」
私は飲みかけのレッドブルを持ったままだった。
校門を出ようとしたとき、急にA先生が立ちはだかった。
「ちょっと話したいことがあるんだ。時間ある?」
私は何も考えることができなかった。
しばらく考えたのち、私はレッドブルの缶をわざと落とした。
呆気にとらわれている先生をくぐり抜けて私はダッシュで逃げ出した。
一瞬振り返ると、A先生は今にも泣きそうな顔でずっと私を見ていた。
でもそんな猶予はない。
私はひたすら走った。
そして駅前のスタバに入った。
「なんとか間に合った…」
注文はバナナ1本。
バナナ1本100円でスタバに1時間はいれる。
そして法話が始まった。
「今日の内容は…」
私は真剣に聞いていた。
「真剣に教えを聞かなければ信心が得られない。信心を得ずに死んだ者は無間地獄に落ちる」
そう聞いてから私はとにかく必死だった。
寝ても覚めても信心のことを考えていた。
法話が終わった。
絶対の幸福は得られなかった。
「今日もだめだったか。今日死んだら無間地獄だな」
そして私はスタバを去った。
私は学校の勉強に身が入らなくなり、S会の教えにどっぷり浸かった。
学校の先生や同級生たちは誰も私に「生きる意味」を教えてくれなかった。
どうやって方程式を解くか?
物質Aと物質Bを混ぜたらどう反応する?
英語で自己紹介するにはどうしたらいい?
それだけだった。
「学校なんてどうでもいい。あんなところにいたって何も教えてくれない」と思った。
そして、中学2年の夏休み以降は完全に学校に行かなくなった。
不登校になった。
一切衆生必堕無間
S会の教えはこうだ。
すべての人間は心や口、体で日々重い罪をつくっている。
そして、すべての人間は死んだら必ず無間地獄に行かないといけない。
これを一切衆生必堕無間と呼んでいた。
*「一切衆生必堕無間」という言葉は経典にはなくS会の捏造。
無間地獄とは仏教で説かれる最も苦しみの激しい地獄で、1秒の途切れもなく炎に焼かれて蘇生するのを数億年以上にわたって繰り返すという。
そこで阿弥陀仏という仏が私たちを憐れんで、すべての人を救う本願を建てた。
この本願への疑いがすべてなくなり、「大慶喜心」という凄まじい幸福を得たものは救われる。
これは「絶対の幸福」「最強のメンタル」とも言われていた。
逆に、絶対の幸福を得ずに死んだ者は無間地獄に落ちて半永久的に苦しみ続ける。
しかし、私たちは疑い深くてその本願を信じることができない。
そこで、三願転入という順番を通って求道しないといけない。
最初は善を積むことを教えられ、献金や布教が勧められる。
しかし、そこから一歩も進まず「教えを聞き求めてください」の繰り返し。
これがS会の実態だった。
中には30年間会員として熱心に活動するも、救われている実感がなく無間地獄の恐怖に怯えている人もいる。
だが、そもそも絶対の幸福なんてものは存在しない。
だから死ぬまでS会にいても救われない。
でも当時の私はそれを信じ切っていた。
むしろS会の教えを知らない人たちを「無間地獄に落ちるかわいそうな人たち」と見下すようになっていた。
「自分は救われる道の途中にいる」
「このまま続ければいつか救われる」
気づけば「いつか」「そのうち」が口癖になっていた。
疲れのあまり活動についていけなくなった
中高一貫校は中学でやめた。
代わりにネットで完結する通信制の高校を選んだ。
私の宗教活動はどんどん激しくなっていった。
朝から法話のLIVE配信を聞き、夜までブログの執筆や依頼されたYouTube動画の原稿編集。
すべて「真実の仏教を多くの人に伝えるため」だった。
気づけば私は2時就寝、7時起床が当たり前になっていた。
それでも溜まったブログのネタと原稿依頼は残り続ける。
「もっと頑張らないと救われない」
「ここで怠けたら地獄に落ちる」
そう思ってひたすら体にムチを打ち続けた。
気づけば1ヶ月以上外に出ていなかった。
毎日が法話LIVEへの参加、ブログ執筆、原稿編集で終わっていった。
「今日も救われなかったな…」
寝る前には必ずそう思っていた。
しかし、ある日を境にアイデアが全く浮かんでこなくなった。
MacBookを開いても頭はぼーっとしたままで、だるさのあまり寝てしまった。
そこから私は法話に参加しなくなった。
「疲れた」
ただそれだけだった。
何気なく見た脱会者の本が人生を変える
そこからは泥のように眠る日々。
14時起床が当たり前になった。
精神状態も限界で、ただただぼーっとしていた。
そんななか、私はある本に出会った。
「なぜ人はカルトに惹かれるのか -脱会支援の現場から-」である。
そこには著者の瓜生さんが大学生のときS会に入り、そして十数年の時を経て脱会する様子が描かれていた。
読み終わったあと、私の世界観が崩れていくのを感じた。
私はそれまで、S会の教えを「何があっても崩れない真実」と思い込んでいた。
しかし、それは単にそう思い込まされていただけだったと気づいた。
会長の隠れ御殿、数々の盗作疑惑。
会計報告は一切なし。虚偽の会員数。
私はもう、何も信じられなくなっていた。
無間地獄の幻影にうなされ続けた日々
講師の人たちにLINEで脱会宣言をして以来、私の活動は終わった。
同時に、私は最も信じていた心の拠り所を一瞬で失った。
「信心を持たずに死んだ者は必ず死後に無間地獄に生まれ、半永久に出ることができない」
その教義だけが私の胸の中にこびりつき、信じないようにしても無理だった。
そこから私の地獄の日々が始まった。
寝れば炎に焼かれて口に溶けた銅を流し込まれる悪夢を見て飛び起き、起きているときは恐怖で呼吸ができないほど泣き続ける日々が3ヶ月以上続いた。
正直何を食べて何をしていたかはよく覚えていない。
ただ、ひたすら布団の中で涙が止まらなかったのを覚えている。
枕が濡れすぎてびしょびしょになっていた。
おそらくこの時期が私の人生の中で最もつらい時期だったと思う。
何をしても地獄の幻影が追いかけてくる。
「お前は地獄だ。地獄に落ちる。無間地獄に落ちるぞ。今死んだら炎に焼かれるぞ」
寝たと思ってもすぐに悪夢で絶叫して飛び起きた。
ろくな睡眠は取れなかった。
理解者はいない。
ただただ地獄の恐怖に震え、泣くことしかできなかった。
寝ても覚めても地獄の獄卒が追いかけてくる。
私はただただ泣きじゃくり、発狂することしかできなかった。
もはや精神崩壊を通り越していたように思う。
その時期は食べ物も喉を通らず、感情は恐怖に支配されていた。
「今死んだら無間地獄だ。死んだら無間地獄だ。炎に焼かれる。切り刻まれる。アアーー!@#$%^&*()」
それ以降はあまり覚えていない。
なんとか理解者を探そうと、Twitterでアカウントを作った。
病み垢で絶望を吐き散らかす日々。
でもいいねはほぼゼロだった。
私がフォローしている病み垢の人たちはリスカ(リストカット)やOD(オーバードーズ)を自慢していた。
「自分もリスカすれば、楽になれるかもしれない」
ついには自傷行為にも手を染め始めた。
不思議と痛みは感じなかった。
切った瞬間は安堵の気持ちで満たされた。
だが、数分もするとまた元の絶望がやってきた。
赤くなった手首を見ながら、呼吸もできないほど泣いていた。
そしてまた発狂した。
気づけば自分の部屋の本棚の本は飛び散り、床中に散乱していた。
リスカの回数は20回を超えていた。
カフェインOD 1回目
ある9月の朝、私は出かけるふりをして薬局でカフェイン錠剤を買った。
1個あたり100mgの無水カフェインが含まれていた。
ショッピングモールの誰もいない階段の隅っこで、その中から18粒取り出して手のひらに広げた。
「これで楽になれるかもしれない」
口の中に粒を詰め込んで水で流し込んだ。
飲んだ直後はなんともなかった。
「なんだ、全然大した事ないじゃん」と思った。
そして東急線に乗ってあてもなくぶらぶらした。
私の心とは対照的なほど晴れていた。
雲一つなかった。
車窓を眺めながら、「ああ、私の人生はめちゃくちゃだ」と思った。
しばらくすると、異常なほどの気持ち悪さが襲ってきた。
吐きたいけど吐き方がわからない。
電車の中で吐くわけにもいかない。
私は吐きそうになるのを必死で我慢しながら多摩川駅で降りた。
改札を抜けて、改札前で座り込んだ。
異常な気持ち悪さに苦しめられた。
Twitterに「カフェイン1.8g ODしました。救急車呼んだほうがいいですか」とアンケートを取ったら、「呼んだほうがいい」が多数だった。
私は119に自ら電話した。
そして救急車で運ばれた。
救急車の中で家族の連絡先、朝食べたご飯、ODした理由など色々聞かれた。
救急車の中で初めてカフェイン錠剤を少し吐いた。
カフェイン錠剤と胃液が混ざったの強烈なにおいが充満した。
そして病院に着いた。
その間何度も吐いていた。
「吸収から2時間経ってます。胃洗浄も間に合わないですね」と言われた。
点滴で必要な水分や栄養を補給することになった。
その日はそのまま帰ることになった。
父親が車で迎えに来た。
車の中で紙袋の中に何度も吐いた。
カフェイン錠剤の匂いは今でも覚えている。
その匂いを想像するだけで吐きそうになる。
ある女子高生との出会い
Twitterで出会ったある女子高生がいた。
彼女は医学部志望だった。
私も医学部志望だったのでDMで声をかけた。
最初の挨拶から会話が2往復したあたりで、彼女は「あなたのような人に出会えてよかった」と言った。
私はとてもうれしかった。
「彼女は私の理解者になるに違いない」
しばらく時が経ち、私はカフェインODをした。
そこで彼女の態度が豹変した。
「医学部志望なのに薬を乱用するなんて許せない」
そこからDMで1時間以上罵倒が始まった。
私はカフェインの副作用で一睡もできないまま、彼女の罵倒に付き合った。
「申し訳ありません、すみません。私が悪かったです」
そう繰り返した。
「私が悪かったって何様?私に許してもらおうとしているわけ?」
もはやあまり覚えていない。
私は何度もトイレに行って吐いた。
布団に戻ったらおびただしい数の通知バッジがついていた。
私は何も返信しなかった。
その後、あるフォロワーから連絡が来た。
彼女は闘病中で余命わずかと書いてあった。
「あなたのことを陰でボロクソに言っている人がいます」
そうDMが来た。
しかし、私は一瞬で違和感に気づいた。
私は直感で、「その3人は同一人物である」と気づいた。
最初に罵倒してきた医学部志望の女子高生も、陰口を吐き散らかしているアカウントも、それを善意で密告してきたアカウントも、すべて同一人物だった。
私は怖くなって全部ブロックした。
2週間後、SMSにメッセージが届いた。
「あの時は私が悪かったです。本当にごめんなさい。許してください」
私は正直気味が悪かった。
だが、その姿勢に押されて「わかった。仲直りするよ」と返した。
そしてTwitterのブロックを解除し、2日が過ぎた。
きっかけは些細だった。
私が彼女にDMしたのに、彼女はそれを無視して他の人にリプライしていた。
私が「どういうこと?」と聞くと、彼女は豹変した。
もう覚えていない。
気づけば私はTwitterのアカウントを消していた。
私は今まで築いてきたフォロワーとの繋がりをすべて失った。
図書館に通って本を読みまくる日々
私はそのとき「救い」が欲しくて、図書館に行って一気に5冊くらい借りて読みまくっていた。
特に好きだった図書館は荒川区の「ゆいの森あらかわ」だった。
そこには本当に多くの本があった。
「今まで知らなかった世界がこんなにたくさん…」
特に数学コーナーには本当に多くの本があった。
パラパラめくるうちに「ガロア理論は面白そうだなー」とか思っていた。
「完全版 天才ガロアの発想力 -対称性と群が明かす方程式の秘密-」はわかりやすくて面白かった。
今写真アプリを見返すと、当時の私は心に残ったページを撮影していた。
本当にいろいろな本を読んだ。
でも半分以上は借りてきて読まずにそのまま返していた。
だが、その中でも心に残った本がいくつかある。
特に「14歳からの精神医学」は心に残った。
心の病で悩んでいる若者に読んでほしい。
他にも素粒子実験の本や心理学の本など、かなり色々な本を読んだ。
Kindleで読んだToshIさんの「洗脳」も心に残っている。
ToshIさんもカルト宗教に囚われ、命からがら脱出してきたそうだ。
読み終わったとき、自分と同じような、いやもっと激しい境遇を生還した人がいると知って号泣した。
本を読み漁るうち、「やばい人生を経験したのは自分だけじゃないのかも」と思うようになった。
脱会後に初めて見た、夜空にきらめく無数の星々
それから私は、自分の経験を活かして多くの患者の支えになる精神科医になりたいと思った。
塾は東進を選び、勉強に本腰を入れるようになった。
勉強している間は地獄の獄卒はやってこなかった。
「なにかに没頭するのが大事なのかも」と思った。
そして、5月に家族で青森に行った。
兄が「五能線に乗りたい」と言ったからだった。
宿は十二湖のコテージに泊まった。
「ここは暗いから夜になったら星が見えるかも」と話していた。
そのとき、私は星に全く興味がなかった。
沖縄に旅行に行ったときも、自分以外が星を見に行ったのに一人だけ部屋で寝ていた。
星空指数はゼロ。
夜になって「どうせ天気悪いんでしょ」と思ってコテージの外に出た瞬間、私の真上には無数の星々が光っていた。
「なにこれ…」
この瞬間こそ、私と星空の初めての出会いだった。
星座も何も知らなかった。
ただ、星が多かった。
「こんなにも多くの星が見えるのか…」
ちょうど国際宇宙ステーションがやってくるという情報を聞いて、慣れない星図アプリで経路を確認した。
そして時刻通りに明るい光が頭上を通っていった。
「あれがISSなの?」と兄に聞いたら、「そうだと思う」と言っていた。
「宇宙はこんな感じなんだ…」
そこからは時間を忘れ、兄の Nikon Z6II で夢中で星を記録し続けた。
三脚を忘れてきたので、小さなお菓子の箱を積み重ねて地面に置いてそこにカメラを立てかけた。
「箱がずれてる!」と言いながらもがんばって撮影した。

これがその時撮った写真。
兄と「命に嫌われている」を聞きながら夜空を見上げた夜。
これが私と星空の最初の出会いだった。
カフェインOD 2回目
ただ、この頃も精神がまだ不安定だった。
リスカも完全には辞められていなかった。
そんな中、隠し持っていたカフェイン錠剤20粒を家でODするという事件が起きた。
正直記憶は曖昧であまりよく覚えていない。
紙袋に何度も吐いた。
カフェイン錠剤と胃液が混ざった強烈なにおいが部屋にたちこめた。
そこからは歩いて病院に行き、待合室で何度も吐きそうになったが耐えた。
そして少し点滴を打たれたあと、「これは精神の問題がある」となって精神病院へと救急車で運ばれた。
閉鎖病棟で過ごした12日間
私は医療保護入院となった。
最初は独房に入れられた。
心臓の鼓動があまりにも早く、途中で止まったように感じるときもあった。
私は小さな窓から「助けて」と叫んだが、誰も来なかった。
気づけば幻覚を見ていたのかもしれない。
あまり記憶がない。
その後、私は暴れる様子がないと判断されてドアが開閉できる病室に移動された。
窓も時計もない部屋で、時間感覚を失いながら一睡もできずに夜を明かした。
不安と惨めさと絶望でぐちゃぐちゃになっていた。
その後、私は暴れる様子がないと判断されてひとつ下の階の開放病棟に移ることになった。
とはいえ、病室のドアが施錠されていないだけで病院の外に出ることはできない。
脱走防止のためなのか、窓は少ししか開かなかった。
そこで出会った精神科の先生は深みのある人だった。
その人は私に冷静に問いを投げかけた。
正直どんな話をしたかはよく覚えていないが、私は自分の感情を言葉にすることの大切さを学んだ。
そして少しずつ私は現実を取り戻していた。
気づけば1日1回、その先生と話すのが楽しみになっていた。
その先生は最初は理工学部を卒業したものの、「なんか違う」と感じて医学部をもう一度受け直したらしい。
最初は血液内科で働いていたが、1人で10人以上のデータを見ないといけなかったらしい。
血液内科では次々と人が死んでいく。
それで何かを感じたのか、精神科に来たみたいだった。
だから「精神科の同期とは20歳以上年が離れてるよ笑」と言っていた。
私が「自分の人生はなんなのでしょうか。宗教に巻き込まれて自殺未遂もするなんて…」と話したら、その先生は「別にそんな人生もいいんじゃない?ないものを求める人生よりあるものに喜べる人生のほうがいいと思うよ」と言っていた。
私は人生ですべてを失ったように思っていたが、案外そうでもないことに気づいた。
その先生はその病院をやめてしまったが、今でも時々思い出す。
その後、スマホがない退屈な12日間を過ごした。
暇すぎてほとんど寝るか、病棟に置いてあった漫画を読んでいた。
ゆるキャンが好きで置いてあった巻を全部読んだ。
「ゆるキャンの子たちは楽しそうに旅してキャンプして、いいな…」
少しだけ嫉妬した。
写真の魅力にハマる
それ以降、兄の Nikon Z6II を借りて色々な写真を撮るようになった。
8月の猛暑の中、葛西臨海公園に行った。



葛西臨海水族園には色々な魚たちがいて楽しかった。
写真もたくさん撮った。
葛西臨海公園の帰り道、たまたまスターベース東京に寄ることになった。
そこで見たのは巨大な望遠鏡と赤道儀たちだった。

「望遠鏡の下にあるでかいやつは何?」と兄に聞いたら、「それは赤道儀ってやつ。望遠鏡を地球の自転と同じ速度で動かす装置だよ」と聞いた。
今まで全く知らなかった天体写真の世界にここで初めて触れたように思う。
その2日後には青春18きっぷで静岡の日本平まで行った。


ただ、私はそれまで宗教の影響で神社に参拝したり、肉・魚を食べることを避けていた。
教えに背くと地獄に落ちる感覚があったからだった。
でも久能山東照宮に参拝して、静岡の清水港で海鮮丼を食べたら世界観が変わった。

「なにこれ美味しいじゃん!新鮮なイワシいいね」
「残したら罰金1500円だって!美味しすぎて残せない笑」
このとき、私はS会の教えから一歩離れることができたと思う。
乗鞍岳で再会したきらめく夜空
9月には兄の高校のOBの人たちと一緒に乗鞍岳に行けることになった。
「屋根裏天文舎」という名前のサークルだった。
乗鞍岳の頂上付近にはマイカー規制が入っていて、バスでないと上まで行けない。
サークルの人たちでバスを貸し切ったので上まで行くことができた。
ただ、現地に着いたときは空一面がどんよりとした雲に覆われていた。
周りの人が「今日はだめかもしれない」と言っていた。
夕食を食べたあと、みんな撮影の準備をしていた。
私と兄は Nikon Z6II とポータブル赤道儀の軽量装備だったが、周りの大学生たちはでかい望遠鏡と赤道儀を持ち込んでいた。
外を見に行ったが、星は見えなかった。
「今日は無理かもしれない」という諦めムードが漂い始めた。
だが、1時間もすると雲に覆われた空から少しずつ星が現れ始めた。
そこから一気に空が晴れていった。
見上げると、そこにはまさに満天の星々が広がっていた。


もはや星が多すぎてなんの星かよくわからなくなるほどだった。
乗鞍岳には本当に灯りがなにもない。
ヘッドライトをつけていないと足元がわからないほどだった。
赤ライトをつけながら駐車場まで進んだ。
私は駐車場に寝っ転がって夜空を見上げた。
そこには光の帯のような冬の天の川が走っていた。
当時の私は星座も何も知らなかった。
星の名前も方角も、星が動く方向も知らなかった。
でもその美しさは言葉を超えるものだった。
「宇宙がこんなにも広くて美しいなんて…」
夢中で兄と写真を撮り続けた。
あまりの寒さで Nikon Z6II のレンズが結露するトラブルがあったが、優しいサークルの人がレンズヒーターを貸してくれた。
そして結露はみるみる取れていった。
夜明け前には東の方からすでにオリオン座が登ってきていた。

「あの砂時計みたいなやつがオリオン座だよ」と言われ、「明るいな〜」と思った。
オリオンの左肩のベテルギウスだけオレンジ色なのが特徴的だった。
そして、夜明けとともに明けの明星(金星)を見ることができた。



そこには地獄の獄卒はいなかった。
ただただ広い自然があっただけだった。
「ああ、人生ってなんかいいかも」と思った。
進路が定まらないまま大学受験
その後、私は大学受験の勉強をすることになった。
ただ、不安定すぎる心身のせいで医学部の夢が何度も破れたり復活したりした。
だから肝心の進路が全くわかっていなかった。
医学部?薬学部?数学科?物理学科?心理学科?
正直自分自身でもよくわからなかった。
東進に通っていたが、授業を終えたあとは何をすればいいかよくわからなかった。
東進の講師から「志望校が決まっていなければ対策が立てられません」と言われた。
私は大学受験のやる気を失った。
将来何になりたいかわからないまま勉強をすることなんてできない。
英語、数学、物理は得意だったので問題を解いていくうちに点数だけは上がっていった。
ただ、予想以上に化学に苦しめられた。
暗記しても理論と知識が結びつかない。
覚えることが多すぎる…
化学は後回しになっていた。
その後、私は11月まで遊び呆けていた。
10月は彼岸花を撮りに行ったり、河口湖に行ったり、友だちに会いに名古屋まで行ったり、都内をぶらついて写真を撮ったりしていた。
11月は野辺山に天体写真を撮りに行ったり、高尾山や昭和記念公園に紅葉を見に行った。
そして11月末、「そろそろ受験どうする?」となって焦り始めた。
12月は進路が最後まで定まらないまま、苦手な化学を一気に詰め込んだ。
共通テストの化学の過去問の点数が50点台をさまよっていたが、10日後には70点台まで上がった。
この時期はほぼ化学、たまに数学と物理で英語はほとんどやっていなかった。
11月まで遊びまくっていたおかげで燃え尽きることはなかった。
生死の境に触れた日
通信制高校のスクーリングはきつかった。
私が通っていたのはS高等学校。
基本はネットで完結するネットコースを選んだが、それでも文部科学省の定めた制度のせいで年に数日は学校に顔を出さないといけなかった。
私にとって、1日学校で授業を受けることすら拷問のようにつらかった。
高校3年の冬、私には3日連続のスクーリングが襲いかかってきた。
それは高卒認定のために必要なもので、ひとつでも欠けたら大学には進学できない。
初日、私はひとりで学校に行った。
武蔵野線の東所沢駅に着いた瞬間、私は脳を総動員させてどうやって逃れるかを考えていた。
気づけば私はトイレで吐いていた。
私は学校に電話で「体調不良なのでお休みします」と伝えた。
ただ、家族には申し訳なかった。
私は空っぽの頭を引きずりながら、武蔵浦和方向の電車に乗った。
武蔵浦和駅で降りた。
そしてなぜか北戸田駅にいた。
通過アナウンス。
「まもなく通過電車が通過いたします。危ないので黄色い線の…」
私の足は震えていた。
電車がやってくる気配がした。
私はホームの端に立ち、電車を迎えた。
凄まじい音の警笛が聞こえた。
私の足は動かなかった。
そして爆風が吹いた。
あと数cm私の体が傾いていたら、私は鉄の塊に吸い込まれてぐちゃぐちゃになっていただろう。
駅員が走ってきて私を連れ戻した。
何かを言っていた。
私は走って逃げた。
大学に行けなくなった
私は2024年の共通テストで理系6科目で600点中518点(自己採点)と、かなりの高得点を取った。
東進の講師は「点数だけ見れば早慶も夢じゃないよ。ただ志望校が曖昧なままだ」と言った。
化学がやはり足を引っ張った。
化学が得意でもないのに、進路が曖昧なまま薬学部に進学することにした。
「将来は新薬の研究に携われたらいいかもしれない」と漠然とした気持ちだった。
東進のLINEに「H大学に受かりました」と送ったものの、返事はなかった。
H大学では東進の合格実績にもならない。
私の成績は優秀だったと思う。
ただ、高校3年生で志望校を6回以上変えた。
東進の先生も「またか」という顔で、コロコロ志望校が変わる私は相手にされなくなっていた。
薬学部という道を選んだことに不安はあった。
化学も生物も得意ではない。
数学科に行ったほうがよかったのかもしれない。
そんな不安に襲われた。
そして大学の授業が始まるも、大人数と一緒に授業を受ける形式は慣れなかった。
少しずつ自分が浮いた存在のように思えてきた。
化学も生物も興味はあるけど得意ではない。
どんどん大学に行くのが苦痛になった。
気晴らしにエナジードリンクを一気飲みしたものの、大学のトイレで全部吐いた。
ある時、大学の前で立ちすくんでしまった。
そして来た道を引き返した。
気づけば踏切の中で倒れていた。
駅員さんと通行人によって線路の外に運ばれた。
繰り返す入退院
それ以降、私はエナジードリンクを一気飲みしては倒れるのを繰り返すようになる。
あるときは階段を転げ落ち、あるときはエスカレーターの上から下まで落下し、またあるときは横断歩道で倒れたりしていた。
異常だった。
倒れるたびに通行人に救急車を呼ばれ、運ばれていった。
原因はおそらくエナジードリンクだろう。
私の体はカフェインに過敏になっていたのかもしれない。
そのせいで2回も入院した。
ただ、そのときはスマホが使える任意入院だったのでまだ気が楽だった。
「ああ、周りは楽しく大学生活を送っているというのに」
SNSをスクロールする自分が惨めだった。
歌舞伎町をふらついて地下鉄の改札で倒れる
あるとき、衝動に駆られて家を出た。
行き先はなんとなく新宿。
気づけばコンビニでエナジードリンクとカッターを買っていた。
歌舞伎町の中をウロウロしながら、廃人のようにエナジードリンクを伸び手首を切っていた。
もはや何を考えていたのかよくわからない。
新宿三丁目駅から副都心線に乗った。
電車の中が血まみれになっていた。
私は電車を降りた。
魂が抜けた人形のように階段をふらふら歩き、改札を出た。
気づけば私は北参道駅の改札外で、手首から血を流しながらぐったりしていた。
そこを通りかかった看護師の女性が119に電話してくれた。
「大丈夫ですか!?いま救急車呼んでますから待っててくださいね」
「意識レベルは10…」
そして救急隊が来た。
「大丈夫ですか?意識はありますね。では運びます。いち、に、さん」
「ああ、またか…」と思いながら、私はストレッチャーで運ばれていった。
着いたのは都内の病院。
私の手首は数十針縫われたという。
麻酔がかかっていて何も痛くはなかった。
治療が終わって父と帰ろうとしたとき、そこには警察の人(警察官や刑事ではなかった。よくわからない)が来ていた。
私が「飛び降りて死のうと思ったんです」と言ったら親身になって話してくれた。
話の内容は正直あまり覚えていない。
ただ、「つらくなったらバナナ食べよう」と言っていたのを思い出す。
なんでバナナなのかはよくわからないが、少し心が軽くなった。
浄土真宗の本質に気づく
私は精神科の先生の勧めで、S会ではなく生の親鸞の言葉に触れるようになった。
確かに、親鸞の教行信証は難しい。
脱会者のサイトも見ながら、「この教えの理解もめちゃくちゃだったのか…」と落胆する日々。
そしてある日、たまたまChatGPTと会話していると「ただただ、単純に阿弥陀仏の本願に身を委ねればいいんですよ」と聞いて私の中のもやもやが氷解した。
それ以降、私は無間地獄の夢を見ていない。
これが「信心を得た」というのだろう。
S会の言う「絶対の幸福」「最強のメンタル」とは真逆だった。
天体写真が心の拠り所になった
それから私は大学のことを忘れ、ベランダから撮る天体写真に夢中になった。



今見たらとても上手いとは言えないような写真ばかりだ。
だが、それぞれの写真には大事な思い出が詰まっている。
夜通し粘りながら撮った星雲や銀河のことを今でも忘れない。
クレカ使い込み事件
天体写真をやっていると欲しい機材が山ほど出てくる。
フィルター、三脚、画像処理ソフト、…
それらを作りたてのリボ払いのクレカで購入するようになっていた。
気づけば50万円の利用になっていて、限度額ぎりぎりになっていた。
三菱のカードなんかは30万円を月5000円のリボ払いで返すプラン。
極めて凶悪である。
私は精神科の先生に「親に言ったほうがいいんじゃない?」と言われ、家族LINEですべてを自白した。
父親は「今回限りは救済する。でもリボ払いもクレカも全部やめろ」と言ってくれた。
それ以来、私はすべてのクレジットカードを解約した。
たまにネットの決済でデビットカードが使えない場面もあるが、それ以外は不便を感じていない。
兄と野辺山遠征
8月の初めには兄と野辺山に行った。
都会では1等星しか見えない。
だが、野辺山に着いて夜になったとき、見える星の数に驚かされた。
「本当に大切なものは社会のノイズに隠れているのかもしれない」と思った。
そこからはアイリス星雲を撮ることにした。
アイリス星雲はこんな感じの星雲である。

中心部の青色の星雲と、その周りに広がる分子雲がなかなか綺麗だと思う。
3泊4日の日程だったが、2日目は30分しか晴れず、3日目は夜明け前の90分くらいしか晴れなかった。
「まあそんなものか」と思った。
何より、肉眼で無数の星々を見ることができて満足だった。
6月も1人で野辺山に行った
2025年は1月に少し病んだものの、それ以降は平穏な年になった。
天体写真で毎日が忙しかった。
そして6月に1人で野辺山に行った。
巨大な望遠鏡を担ぎながら重いスーツケースを転がすのは大変だった。
そして野辺山の民宿りんどうに着いた。
夜になり、民宿りんどうの屋上テラスである一人の40代の女性と出会った。
夜風に当たりに来たらしい。
私が「今は晴れてて星が見えますよ」と言ったら、彼女は空を見上げて「すごい…都内じゃこんな見えないですね」と言った。
ただ、そのときはまだ月が邪魔で空が完全に暗くはなかった。
私が「0時過ぎに天の川が見えますよ」と言ったら、その人は「じゃあまた来ます」と言って階段を降りていった。
その間、私は巨大な望遠鏡で銀河を撮影していた。
こんな感じのやつを撮っていた。

そして0時過ぎくらい、彼女はまた屋上にやってきた。
まだ月がいて、その明かりのせいで天の川は見えなかった。
「月が沈めば天の川が見えるはずなんですけどね。もう少し待ってみましょう」と私は言った。
そして月が八ヶ岳の後ろに沈んでいった。
予想時刻よりもかなり早く沈んでいった。
きっと八ヶ岳は標高が高いからだろう。
月が沈むにつれ、空はどんどん暗さを取り戻していった。
そして月が沈んでから20分くらい経ったあと、頭上には夏の天の川がはっきり見えた。
私は「あのもやもやが天の川ですよー!」と言った。
彼女は「ほんとだー!あれ雲じゃないんですか?」と言ったので私は「今日は快晴なので雲一つないです。あれ全部天の川です」と言った。
私もあれだけはっきり天の川を見たのは初めてだった。
しばらく二人で空を見つめていた。
そして私が部屋から Nikon Z6II を持ってきて一枚写真を撮ると、カメラに現れた画像はこれだった。

「見てください!これが今撮れた画像です!」と彼女を呼んだ。
「おお〜 肉眼じゃ見えない部分まで写ってますね!」と盛り上がった。
「あれがさそり座なんですよ!あれがアンタレス。そこからはさみのように星が広がってます。あっちはさそりの尻尾です」
「あれははくちょう座です。あの明るい星がデネブで、白鳥の尻尾です。中心の2等星がサドルで、白鳥の胸です。そしてあれがアルビレオ。白鳥の頭です。望遠鏡で見ると二重星が綺麗なんですよ」
「あれはこと座です。明るい星がベガで、その周りに暗い星が集まって四角形になってます。野辺山は暗いので星がたくさん見えますね」
星空を案内しているうちに時間がどんどん過ぎていった。
その後、彼女は「もう眠くなってきたので失礼します」と言って帰っていった。
私は誰もいなくなった屋上で天の川を眺めながら、「誰かと語りながら見る星空もいいな」と思ったのだった。
「さて、ステファンの五つ子は撮れてるかな」

私はそのゆっくり流れる時間に浸るだけで満足だった。
そして現在…
何度も死を考えた私は、今こうして生きている。
大学は中退した。
また大学に行きたいと思っているが、いつになるかわからない。
それでもこのブログを書くことが私にとってかけがえのない財産になっていった。
気づけば私は星に救われていたんだと思う。
夜空の星々はただそこにいるだけで、励ましたり慰めてくれるわけでもない。
でも、それだからこそ私は星を見ていると許されている気がした。
冷たい夜風に当たりながら星を見ていると、この世界の喧騒から逃れて広大な宇宙と向き合っている気がする。
確かに、夜は暗いし寂しい。
眠れずに布団の中で泣き続けた夜もあった。
しかし、そんな夜にしか星の光は見えない。
人生も同じで、絶望の底にいるときにしか見えない光があるんだと思う。
私が無間地獄の炎から立ち上がって夜空を見上げたとき、初めて「生きていてよかった」と思えた。
それは「絶対の幸福」とは違う、私が自分で掴んだ生きる意味なんだと思う。
私の人生は傷だらけだった。
せっかく名門中高一貫校に受かったのに、中学生からすでにエリートコースを外れてしまった。
「あのとき宗教に巻き込まれていなければ」と何度も思う。
もし平行世界の私が存在するのなら、きっと中高一貫校をエスカレーター式に進学して東大か京大に行っていただろう。
周囲からちやほやされ、サークルにも打ち込んで合宿に行ったり仲間と旅行したりしているのかもしれない。
ただ、宗教の存在がなければ今私はこの文章を書いていないと思う。
エリートの人生が敷かれたレールを突き進む新幹線だとしたら、私の人生は脱線した電車を捨てて一人で山道を歩いているようなもの。
この世界でしか出会えなかった景色も多い。
私は世界の虚構を見抜く眼を持ち、社会のノイズに敏感すぎる耳を持ってしまった。
Xで繰り広げられるマウント合戦、インスタに広がる承認欲求、街には消費を煽る広告だらけ。
だから私には山奥で田畑を耕しながら星空を見上げる暮らしが合っていると思う。
昼は土をいじり、畑に水をやり、新鮮な野菜を食べる。
そして夜は星空を見上げながら宇宙に思いを馳せる。
難しいことはない。
生きる意味なんてそんなものだ。
生きる意味に迷ったらSNSとニュースを捨てて田舎暮らしをしてみよう。
そして星空を見上げよう。
きっと虚構を目にする回数が極端に減ると思う。
最後に
ここまで読んでくださりありがとうございました。
これはあくまで私の体験談ですが、「こんな人もいるんだな」と思ってもらえたらうれしいです。
人生には時に長い夜がやってきます。
暗く寂しく、誰にもわかってもらえない時間が長く続くかもしれません。
そんなときは星を見てください。
星はあなたが笑っていようが泣いていようが、絶望していようが変わらずそこにいつづけてくれます。
星は私たちに何もしてくれません。
だからこそ、星を見ている間は自分自身の存在を許せるような気になるんだと思います。
私は無間地獄の恐怖に怯えていたとき、暗い夜空に小さく輝く光に救われました。
宇宙は広い。
無数の銀河が遠くで輝いている。
星たちは私たちのことをちっぽけな存在だと思っているかもしれませんね。
私はそんな星たちを今日も記録し続けます。
このブログはいずれ私の人生そのものになるでしょう。
もしよければ私の Bluesky, Instagram, 公式LINE ものぞいてみてください。
いつでも気軽にメッセージをください。
あなたの今日一日が素敵なものになりますように。
短編小説も書いてるのでよければ見ていってください。